今日はトレーニングの話です。
最近ヤフーニュースなどで、部活中の死亡事故の記事をよく見かけます。
部活中にヘマをしたことを理由に懲罰的なランニング、いわゆる「罰ラン」というやつをさせられた結果、熱中症などで亡くなるという事故ですね。
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こういった事故はもちろん指導者に責任があります。
指導者には技術的・体力的な部分の指導に関する責任だけでなく、安全管理上の責任をその立場上、当然に負っています。
教える側は、安全管理のため、教わる側の体力レベル、その日の体調などを見極め「適切な強度の負荷」をかけることが求められます。
また、指導者は選手のパフォーマンスレベルの向上のためにも、「適切な強度の負荷」をかけることを求められます。
ここを見極めてどのような内容の練習を選手に課すかということが非常に大切です。
あ、これ、「1日で」ではないです。「1週間で」ですよ。
そう、「100メートル走100本」を1日でやらされることが、どれだけ理不尽で狂気じみているかおわかりいただけるでしょう。
「100メートル走100本」というのであれば、指導者は、
「なぜそれが、98本や、99本では少なく、101本や102本では多すぎるのか。」
を合理的に説明できなくてはなりません。
「なぜ、98本や99本では身体能力向上のために不十分で、なぜ101本や102本では過度な疲労やケガの危険があるのか。」
を理路整然と説明できなくてはなりません。
その説明ができもしないのに、ただ感覚的にキリがいい数字の「100本」というのであれば、その指導者は完全に思考停止のポンコツロボットです。
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ただ、「罰ラン=悪」ではありません。
指導者が、ミスをした選手に、その能力向上のためや、技術の改善のために必要なトレーニングであると判断して、一定の負荷をかけるのは当然のことです。
あるいは、団体競技での士気の向上のためや、子どもに対する「しつけ」のため、「適切な強度の負荷」をかけることは否定されません。
むしろ、それこそが指導者に求められている部分とさえ言えます。
事故を起こした指導者にはこの視点が全く欠けています。
「100メートル走100本」など、自分が腹立ちまぎれにやっている憂さ晴らしにすぎません。
要するに「・・・のため」という合目的的な視点がないのです。
「罰ラン」は何のためにさせているのかということを忘れてはなりません。
いかなる練習も、「目的」があきらかになっている必要があります。
目的とその手段を見比べて、その間に「必要不可欠と言える関連性があるか」「合理的な関連性」があるか、指導者はその見極めができなくてはなりません。
また選手の側も、自らの能力の向上のために本当にこの練習が必要なのかということは常に自問し続けなくてはなりません。
よくよく吟味あるべきものなり。
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