内なる言葉を磨いているか
今回はテニスに限らず、すべてに通じる考え方の話。
先日、私が定期的に参加している早朝の読書会で、面白い表現に出会ったんですね。
それは「内なる言葉」という表現です。
「言葉」っていうと、誰かに対して、何かを伝えるために、外部に向けて発せられるものを通常イメージするじゃないですか。
でもね、言葉ってそれだけじゃないんですよ。
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そう、外に出ていく言葉だけでなくて、「内なる言葉」があるんです。
人は物事を考えるとき、言葉で考えます。
このときの言葉は外部に表明されるものではありませんよね。
これが「内なる言葉」です。
言葉は思考のためのツールの一つなのです。
そのツールがそもそも不足している状態、すなわち語彙不足。
あるいは、ツールが粗悪で磨かれていない状態、たとえば陳腐な言葉や下品な言葉ばかりを使う状態。
こんな状態ではまともに思考することはできません。
「言葉を磨く」ことの必要性は、何も人前でしゃべったり、文筆活動をする人間だけに限ったものではありません。
思考をするための「内なる言葉」を磨くことは、ありとあらゆる人間にとって必要なものなのです。
じゃあ、どうやってその言葉を磨けばいいのかと問われると、やっぱり古典を読むことだと思うのです。
古典と言っても、源氏物語とか徒然草とかを読めって言ってるんじゃないです。
最近の本であっても、長く名著としてたくさんの人に読まれているような本であれば、大丈夫です。
たとえばドラッガーとか、カーネギーとかも、ここで言う古典に含めていいと思います。
源氏物語とか、徒然草に比べれば、これらは比較的新しい本ですけどね。
長い時を経ても色あせない名著、その中には本当の「言葉」があると思うのです。
そのような「言葉」たちを自らのツールとして取り込むことができれば、より高い次元で思考が可能となることは間違いありません。
それが内なる言葉を磨くということです。
よくよく吟味あるべきものなり。
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